徳川軍本陣の軍議
語り天正十三年八月、信濃の夏空の下、七千の徳川の大軍が上田盆地を埋め尽くしていた。本陣の幕舎のなかに集まった面々は、徳川家康が誇る百戦錬磨の譜代の重臣たちである。
鳥居元忠――して、真田の籠もる上田の城はどうなっている
語り不機嫌そうに声を響かせたのは、実質的な総大将格である鳥居彦右衛門元忠であった。
語り家康への忠義にあふれ、曲がったことを嫌うこの頑固な猛将の目には、今回の真田討伐そのものが「格下の小物への罰」としか映っていなかった。物見(偵察)から戻った足軽大将が、恐る恐る頭を上げて報告する。
足軽大将はっ。城は……未だ普請(工事)の途中にございます。石垣は門のまわりに僅かにあるのみで、大部分は土を盛っただけの土塁。堀に水もなく、ただ掘り下げただけの空堀にございます。
足軽大将城下から本丸に至る道も、にわか作りの木柵(千鳥がけの柵)で塞がれている程度。とても天下の徳川を迎え撃つ構えとは、到底思えませぬ
語りその報告を聞いた瞬間、幕舎のなかに乾いた笑い声が響いた。笑ったのは、若き日の大久保彦左衛門忠教(後の『三河物語』の著者)である。
大久保忠教おいおい、聞いたか、兄者。城とも呼べぬ『泥の土手』ではないか。真田安房守(昌幸)ともあろう者が、我ら三河武士を迎え撃つというからいかなる要害かと思えば、ただの泥縄式の陣小屋よ
語り彦左衛門は兄の大久保七郎右衛門忠世を振り返り、肩をすくめた。大久保忠世は織田信長からも「あぶら(油)のような強者」と評された老練な戦上手である。忠世は少しだけ顎をさすり、慎重に口を開いた。
大久保忠世真田は小賢しい男。織田、上杉、北条の間を、狐のごとく泳ぎ回ってきた。何か企みがあるやもしれん
語りしかし、その慎重論を鳥居元忠が鼻で笑い飛ばした。
鳥居元忠忠世、考えすぎよ。小賢しい狐ゆえに、大局が見えんのだ。真田の兵など、上杉からの借り物を合わせても二千そこそこ。我が方の三分の一にも満たぬ。しかも城はあのザマだ。
鳥居元忠沼田の領地を惜しむあまり、分をわきまえずに家康様を怒らせたのが運の尽きよ
語り元忠は軍配を机に叩きつけ、一同を見渡した。
鳥居元忠たかが五万石にも満たぬ小大名の真田が、にわか作りの未完成の城で何ができる! 我ら三河の兵が力攻めすれば、あんな泥の壁など一揉み、いや半日もあれば踏み潰して本丸まで突き抜けるわ!
語り隣で静かに聞いていた平岩主計頭親吉も、元忠の言葉に頷いた。平岩は家康の幼少期から苦楽を共にしてきた男であり、徳川の武力に絶対の自信を持っていた。
平岩親吉元忠の言う通りよ。我らは武田の騎馬隊とも、織田の鉄砲隊とも渡り合ってきた。真田の仕掛けなど、正面からねじ伏せてくれよう
鳥居元忠よし、日没を待つまでもない!
語り元忠が立ち上がる。その顔には、勝利を確信した傲慢な笑みが浮かんでいた。
鳥居元忠大手門から一気に攻め入る。真田昌幸の首を家康様への土産にするぞ。者ども、泥の城ごと踏み砕け!
徳川将星たちおおおっ!
語りと幕舎に轟く徳川将星たちの鬨(とき)の声。このとき、彼らはまだ知らなかった。
語り自分たちが「未完成のボロ城」と見下したその土塁と木柵の迷路こそが、真田昌幸が命を懸けて編み出した、徳川軍七千を呑み込む「底なしの地獄の罠」であるということを――。
上田城本丸の軍議
語り天正十三年八月。完成間近の上田城本丸は、真田の将兵たちの熱気と焦燥に包まれていた。徳川軍七千が迫るという報が入るなか、本丸の陣屋に集まった者たちは、眼前に広がる城の有様に不安を隠せずにいた。
真田の重臣殿、本当にこの城で徳川を迎え撃つのですか。石垣は大手門の周りのみ。大部分は土を盛っただけの土塁にございます。堀に至っては、水の一滴すら入っておらぬただの空堀……。
真田の重臣これでは敵の騎馬がそのまま駆け上がって参りますぞ
語り重臣の一人が、焦りを含んだ声で主君に詰め寄った。その声を、本丸の奥に座る真田安房守昌幸は、冷えた白粥でもすするように泰然と聞いていた。昌幸の顔には、大軍を前にした恐怖など微塵も浮かんでいない。
語りむしろ、その細い目をさらに細め、不敵な笑みを浮かべていた。
真田昌幸案ずるな。水のない空堀だからこそ、泥の壁だからこそ、徳川は落ちるのだ
語り昌幸は手元に置いた上田の絵図面を指先で叩いた。
真田昌幸家康の家臣どもは、武田を滅ぼし、北条と渡り合い、今や天下で最も鼻が高くなっている。我ら五万石に満たぬ国衆など、一揉みでひねり潰せると思うておるはずよ。その驕りこそが、奴らの命取りよ
語り昌幸は立ち上がり、絵図面の上に細長い木片を次々と並べていく。それが、城下町から城内へ至る道筋に張り巡らされた「千鳥がけの柵」の群れであった。
真田昌幸徳川の先鋒が来たら、戦うふりをして大手門を開け、二の丸まで一気に引き込め。奴らは色めき立ち、功を競って狭い城門に我先にと押し寄せる。……そこよ
語り昌幸の目が、冷酷な知将のそれへと変わる。
真田昌幸水のない深き空堀は、落ちれば二度と這い上がれぬ底なしの墓穴となる。さらに、入り組んだ木柵の迷路に敵の足が止まったその瞬間、周囲の土塁の陰、千鳥に配した物見櫓から、一斉に鉄砲を撃ち込め。矢を注げ。
真田昌幸大石を落とせ。逃げ惑う敵は、己の馬と兵に踏み荒らされ、身動きが取れなくなる。城全体を、奴らの血を吸う巨大な『落とし穴』にするのだ
語りその時、砥石城の守備を任されている長男・真田源三郎信幸が静かに口を開いた。
真田信幸父上、城内で敵が乱れたところを、私が砥石城より打って出て、横合いから急襲いたします。命からがら逃げ出す徳川の兵を、増水した神川へ追い詰めましょう
真田昌幸うむ、源三郎、よくぞ見抜いた
語り昌幸は満足そうに頷いた。
真田昌幸城だけが戦場ではない。上田の山も、川も、町も、すべてが我が戦陣よ。徳川が『未完成のボロ城』と見下したこの泥の壁で、天下の三河武士の首を根こそぎ刈り取ってくれようぞ
語り陣屋に集まった将たちの顔から、不安が消え去り、代わりに武者震いが走る。泥と土、そして木柵だけで作られた未完成の城が、昌幸の脳内ではすでに、七千の敵を喰らう最凶の要塞へと変貌を配置し終えていた。